Opinion

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幼児期を振り返って

「幼児期を振り返って」母親の体験記
お子様:I・Tくん 裸耳聴力 右110dB・左103dB 人工内耳装用値20~25dB
 
 
平成24年12月20日、元気な産声をあげて生まれた我が家の待望の長男、T。
新生児スクリーニング検査でリファーとなり、生後3か月になるのを待って3月末に新潟大学病院で精密検査を受けました。高度難聴との診断でした。
診断結果を受けて落ち込む間もなく診断からわずか1週間で金沢へ引越し、何もわからないまま紹介状を手に金沢大学病院へ行きました。
緊張して廊下で待っている時に、目の前を歩いていく男の子が人工内耳をしているのが見えました。もしかしてこれが人工内耳?と、初めて見る衝撃と同時に、看護師さんとふざけあってしゃべっている声がとてもはっきりと聞こえてきて、この子も難聴の子なの?普通の子と変わらない!と、とても驚きました。それが当時年長さんになったばかりのSくんでした。
その後、みみずくクラブで話を聞き、聾学校と金沢方式の見学に行きました。福祉会館でSくんと再会し、改めて、健聴児と見分けがつかないほどの姿に驚いたのを覚えています。
 
5ヶ月で補聴器の装用を始めると、同じ社宅の小学生がTを見て、「この子は難聴なん?僕のクラスにも人工内耳をつけてる子がおるよ!」と言いました。こんなに近くに同じ難聴の子どもがいるんだ!と、私はとにかくそのお母さんと話がしてみたくて、会って話がしたいと、すがる思いで手紙を書いて、その子に渡してもらいました。N・Y君との出会いでした。
Y君のお母さまが早速連絡を下さり、同じ町内だったご自宅に会いに行きました。
福祉会館の1回目の見学の後でしたが まだよくわからない状態でしたので、実際の訓練の教材や写真を見せて下さったり、私の不安な気持ちに共感しながら色々と話をして下さいました。
学校から帰ってきた当時小学4年生のYくんが「可愛いね~!」とTをかわいがってくれる姿をみて、私はボロボロに泣いてしまいました。「なんで泣いとるん~」と言うYくんに、私は、「TもYくんみたいに立派なお兄ちゃんになれるかなぁと思ってね。」と言うと、「もちろんなれるよ!僕以上にね!」と言ってくれたあどけない笑顔が、今でも鮮明に思い浮かびます。
金沢方式で療育を始めよう!金沢に来たのは運命だったに違いない!と決意した瞬間でした。
 
6年間を振り返ると、この最初の瞬間からずっと、金沢方式によって立派に成長した難聴児たちの姿を目標にしながらやって来られました。
そして、お手本となる先輩がいつも身近にいて下さることがどんなに心強かったか。また、同じく頑張っている仲間がいるというこの環境が、どんなに有難く、唯一無二の拠り所となる場所であったか、その後 金沢を離れて特に、実感しました。
 
<訓練開始>
その後、腎臓の病気が見つかり、通院治療を経て、9ヶ月から訓練を開始し、能登谷先生のご指導のもと、奮闘が始まりました。
とにかくジェスチャーをたくさん使おうと必死で、先生に教えていただくだけでは間に合わず、手話の本で調べたり自分で作ったホームサインを多用しました。
また、先輩方のジェスチャーのやり方を真似して、こんなふうにオーバーにやると伝わりやすいんだな、とか、視線の合わせ方や抑揚のつけかたなど、たくさん技を盗んでいきました。
 
始めの頃は特に、日々の訓練は必死そのものでした。
Tが何に興味を持ち何を見ているのか知りたい、そこから刺激の糸口を見つけたいと思えば思うほど、Tが起きている間はずっと一緒にいてジェスチャーで話しかけ、常にフル回転状態で頑張りの度合いがわからず、自分で自分を追い詰めて物に当たったりすることもありました。
その度に、先輩の家に遊びに行かせてもらったり、悩みを相談して、みんな同じような経験を経てやってきているんだと思うと、また頑張ることができました。
 
Tは手先が器用で、ジェスチャーがとても上手でした。表情豊かにジェスチャーでお話しするTはとてもかわいく、私自身もTとジェスチャーでお喋りするのが楽しかったです。
『子どもと楽しく接する。』これはとても重要だったと思います。遊びと生活の中での刺激を中心に“楽しんで”過ごすことを意識して過ごすようにしてきました。
 
Tは料理にとても興味があり喜んでやったので、0歳台から一緒に料理をしながらいろいろな刺激をしていました。毎日のごはん作りからお菓子作りパン作りなどなど。1歳7ヶ月で卵を割っていたのを思い出すと、よっぽど好きだったのだろうと思います。
 
ジェスチャーの表出は順調でしたが、文字の段階では始めは苦戦しました。なかなか文字が入らず焦りもありました。
そんな時は出来るだけ家にこもらないで、近所の散歩でもスーパーの買い物でも何でもいいから出掛けて気分転換をしながら、外での刺激をするようにしていました。
大きな声でジェスチャーをつけて話し、首からメモ帳とペンをぶら下げた一風変わった親子。周りに注目されてしまうことに始めは戸惑いもありましたが そのうちに慣れました。
どこでも大きな声で「T!T!」と話しているので、知らない人にもなぜだかいつも「Tくんこんにちは!」と名前で話しかけられたり、遠方の旅行先で「Tくんですよね?以前○○公園で見かけたんです!」と奇跡の再会?を果たし知らない人に話しかけられたこともありました。
 
Tが2歳3ヶ月の時に新潟に戻ることになり、新潟から通いながら訓練を続けていく決断をしました。この時、サポートをしてもらえる環境にということで、私の実家に入る事を主人は承諾してくれました。
Tが生まれてからの6年間で、私たち夫婦は様変わりしたと思います。衝突することもたくさんありました。その度にたくさん話し合いを重ね、Tの成長と共に、夫婦としても成長して来られたと思います。
主人にはいつも私の一番の理解者でいてもらえたことで、支えてもらいました。愚痴でもなんでもどんなことでも話せる関係であったことが、私にとって一番の支えでした。
マスオさん状態の4年間は色々と苦労をかけたけれど、Tの訓練の環境を優先して考えてくれたことに、心から感謝しています。
 
新潟に戻ってからは、家族の協力の下、私の気持ちに余裕をもって、さらにTとの時間を密に過ごせるようになりました。当時は7人の大家族で、たくさんの言葉を掛けてもらえる環境がTにとってとても良い刺激になりました。
 
3歳ちょうどで人工内耳の手術をしました。手術前にどれだけ日本語の形が身についているかがとても重要だと実感しました。それまで手話で表出していた助詞付きの長い文章に少しずつ音声が伴うようになり、エアコンの作動音や遠くで聞こえる救急車の微かな音にも反応するようになると、聞こえるたびにTと一緒に喜び合ったことが忘れられません。
 
年少の9月から幼稚園に通い始め、先生方や優しいお友達に恵まれ、毎日楽しく通う事ができました。ひょうきん者で社交的な性格も相まって、聞こえにくい時やわからない事も自分から伝えることが出来ていると聞きほっとしました。そんな時にも、しっかりとした日本語が身についていて良かったと、つくづく思いました。
 
4歳2ヶ月の時、弟が生まれお兄ちゃんになりました。赤ちゃん返りもして一時はどうなる事かと思いましたが、今では立派に兄弟喧嘩もする仲になりました。兄弟の存在が、これからのTの人生でいつかきっと助けになる時が来るだろうと願っています。
 
周りの人たちの理解と協力のおかげで、今のTと私たち家族の姿があります。
金沢に通う際の運転手として4年間、月に2~3回、往復600キロの道のりをいつも運転してくれた私の父。家事をほぼ全面的に担い私は訓練に集中できるように協力してくれた母。二人とも、私たちと一緒に、Tをとにかく大切に大切に育ててくれました。
二人の協力なくしては新潟から4年間通いとおすことも、第二子をもうけ育てる事もできなかったと思います。孫中心の生活にシフトし全面協力してくれた私の両親には感謝してもしきれません。
 
最後になりましたが、今までご指導くださいました、能登谷先生、山﨑先生、本当にありがとうございました。
新潟に戻ってからは特に、福祉会館に来られる回数が減ったことで、能登谷先生は度々メールや電話で連絡を下さり、いつも気にかけて下さいました。お休みの日でも、ほんの些細なことでも連絡を下さることに、本当にいつもありがたい気持ちで、先生のその思いにも負けないよう少しでも自分も頑張ろうと奮闘する活力になりました。
先生のおかげで、Tは今、毎日いきいきと友達と関わり、本や漫画を楽しみ、想像力豊かな子に成長しました。
日々の訓練は大変でしたが、今こうして振り返ると、こんなにも子育てに真剣に向き合い考える機会を得られたこと、こんなにも我が子と密に関わり、丁寧に丁寧に幼児期の子育てができたことは、幸せだったのだと思います。あの時、偶然にも金沢に引っ越してきてよかった。金沢方式に出会えてよかった。と、心底思います。
熱心にご指導くださいました先生、本当に、ありがとうございました。
 
また、遠方から通うということで、同期の東海さんをはじめ、幼児班の皆さんにはいろいろとご配慮いただいたり、係も代わってもらったりと、本当にお世話になりました。私たちが通い続ける事が出来たのは、皆さんのご協力なくしてはできなかったことです。皆さんありがとうございました。
 
周りの方々にたくさん支えられてここまでやって来られたことに、心から感謝して、これからもTには、感謝の気持ちを常に持てる人間になって欲しいと願っています。
 
これでおしまいではなく、通過点ではありますが、ここまで頑張ってきたことを信じて、そしてそれが、この先もっともっと起こるであろう困難を乗り越えるための力になることを信じて、今後も親子共々、頑張って行きたいと思います。
 

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