Opinion

会員の声

重度難聴児を持つ母より

 平成19718日、息子は3618gで産まれました。私と主人は体に奇形がないかをすぐに確認しました。それは、妊娠していることに気付かず、妊娠中に服用してはいけない抗生剤を服用してしまい、胎児に影響はないと産婦人科の先生に言われていましたが、産まれてくるまで何か異常があるのではないかと、とても不安だったからです。
特に異常はなく、とても安心しましたが、入院中の宗利はとてもよく眠り、周りの赤ちゃんたちが泣いていても寝ているのを見て何か分からないけど少し不安を感じました。
退院の日、看護師に「入院中に新生児スクリーニング検査をきちんとできなかったので、2週間検診の時にもう一度検査をしますね。」と言われ退院しました。2週間検診まで実家で静養している中、姉の子が誤って引き出しを落とし、すごく大きな音にそこにいたみんながビックリしました。でも、その時息子はびくりともしませんでした。聞こえているのかな?と気になった私は眠っている息子の近くで掃除機をかけてみましたがなにも反応がありませんでした。不安になりながら2週間検診を迎え、息子を看護師に預けました。検査後、看護師に「ちゃんと聞こえていましたよ。良かったですね。」と言われました。しかし、眠っている時にする検査のはずなのに、息子は起きていたし、ちゃんと検査したのかな?と不安を抱いたまま家に帰りました。でも、気にし過ぎなのかな。という気持ちもありました。しかし、家に帰ってもやっぱり不安は消えず、耳元で手を叩いたり、名前を呼んでみたりしている自分がいました。保健師が家に訪問に来た際に相談すると、もし心配なら県立中央病院で検査をしたらいいと言われ、不安を取り除くためABRの検査をすることにしました。検査中、検査員の人が「妊娠中に何か変わったことはありませんでしたか?」と聞いてきたその一言で「聞こえていない」と分かりました。医師から「音の反応がありません。難聴だと思います。月曜日すぐに金沢大学附属病院を受診してください。」と言われ難聴というのはどういう事なのか、頭が真っ白になり涙も出ず、喋ることも出来ず、ただ茫然とし主人と3人で家に帰りました。家についた途端、「どうして」という感情が込み上げて涙が止まりませんでした。
 
 その日から毎日パソコンに向かい難聴とはどういうことか?原因は?治療は?と寝ずに調べました。しかし、どんなに調べても原因は不明、難聴は治らないことを知り、この先どうなるのかという不安のまま金沢大学付属病院を受診しました。そこで初めて能登谷先生とお会いました。能登谷先生は「補聴器をつけて訓練すれば大丈夫です。」と言われました。すぐに補聴器をつけ、聾学校と金沢方式の訓練、両方見学してどちらかを決めて下さいと言われ、最初に聾学校の小学部から高等部まで見学し、その後、福祉会館の見学に行きました。福祉会館ではお母さん方が手作りした物を子供が楽しそうにやっているのを見て、すごい!でも、自分にできるのか?という不安がありました。主人とどちらにするか話し合い、「金沢方式」で頑張ってみようと決め、生後4か月から福祉会館に通うことになりました。
 
 始めのうちは、1時間でも多く補聴器をつけていられるように、色んな音を聞かせてあげて、手話でたくさん話しかけることでした。息子とコミュニケーションをとるために毎週、たくさんの手話を先生から教えてもらいました。すると、次第に指さしをしたり、ジェスチャーの真似をしたりするようになっていきました。そして忘れもしない、初めての表出。スーパーでアンパンマンを見て、ジェスチャーをしたとき、主人と「今のアンパンマンだよね?」と二人で喜んだのを覚えています。成長とともにジェスチャーの理解は増えていきましたが、文字になるとすごく嫌がり、なかなか前に進めない状態が長く続きました。原因は私が子供の興味に合わせてあげられず、周りを見て焦ってしまい、やらせようとしていたからでした。遊びながら、興味のあることを刺激し、常に息子中心の生活に変えていきました。
 
 23か月の時に人工内耳の手術をしました。頭の中に機械を入れるリスクなどを考えましたが、私たちと同じ音の世界で生きてもらいたいと思い人工内耳をすることを決めました。人工内耳を選択した時、息子を一生守っていこうと私たちは強く決心しました。人工内耳の音入れの時は初めて聞く音にビックリして涙ぐんでしまいましたが、徐々に音になれてくると自分から人工内耳をつけてほしいというようになり、音への興味も出てきました。
それから次第に息子のジェスチャーに声がつくようになりジェスチャーをしないで話すことも増えていきました。
 
 3歳の春、周りとの協調性を養うために、幼稚園に通うことにしました。
とても小さな幼稚園でクラス14人と人数も少なく、とても優しい友達に恵まれ毎日楽しく通うことができました。喧嘩もトラブルもなく、本当に良かったと思います。
幼稚園に行く前に出されている課題を必ずしてから行くことが決まりでした。毎日コツコツと課題をして、緩やかではありますが遅れを徐々に取り戻していきました。
その中で、課題がうまく進まない時、主人が私に変わって訓練をしてくれたこともありました。私がつまずいた時は必ず主人と改善策を話し合いこれまで進めてきました。
 
 息子が4歳になる1週間前に弟が産まれました。
弟ができて嬉しい反面、息子だけの時間を作るのが難しくなり、落ち着いて課題ができない日が増えました。息子との時間を確保する為に仕事で疲れている主人を起こして下の子を見てもらったり、祖父にお願いしたり、家族で協力しなんとか宗利との時間を確保していきました。
今では弟も成長し派手に喧嘩をしたり、仲良く遊んだり、賑やかな毎日を送っています。
これから、お互い助け合っていける存在として、兄弟仲良くしてほしいと思います。
そして、先日宗利は幼稚園を卒園しました。
名前が呼ばれると大きな声で返事をして、堂々と証書をもらいに行く姿に感極まりました。
難聴の息子が私たちと同じように普通に会話していることが夢のようです。なにより、一番の財産は人工内耳がなくても書いてもらえれば理解できるようになってくれたことです。
しかし、普通に会話ができることで、聞こえにくさを理解してもらえない問題があります。人工内耳をつけても聴力が軽度になるだけで、健聴者のように聞き取れるわけではないことを社会に理解してもらえるように、本人も、私たちも、世の中に訴え続けていかなければいけないと、強く思います。
 
最後になりますが、能登谷先生、お忙しい中、私たち難聴児を助けたいという先生のやさしい想いから私たち家族を救って下さり、また親としても成長させていただき本当に有難うございました。橋本先生、福祉会館での訓練やマッピングなど大変お世話になりました。有難うございました。この場にはいらっしゃいませんが、1歳~2歳の時期、原田先生にご指導をしていただきました。有難うございました。これからも、家族みんなで成長をし続けたいと思いますので、ご指導を宜しくお願い致します。
金沢方式に出会えたこと、素晴らしい先生方に出会えたこと、何でも話せる同じ難聴をもつお母さんたちに出会えたこと、すべての出会いに感謝しています。
これから、一生難聴児をもつ親としての責任を背負って、金沢方式を存続させ、同じ障害をもつ子同士が、話し合える場をなくさないようにしなければいけないと、強く感じています。