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YT君のお母さんYTさん
卒業感想文集 金沢方式といっぱいの愛情に育まれ・・・

<誕生から発見、そして金沢方式との出会い>

 平成12年7月19日、Tは37時間もの難産の末、生まれてきた待望の赤ちゃんでした。

 出産に立ち会った主人の話によると、Tは生まれてすぐに産声を上げなかったそうです。

 その上、退院する迄の約1週間に泣き声を2度ぐらいしか聞かなかったことを思い出すと、生まれつき聞こえが悪かったのかもしれません。

 当時は、生まれてすぐに、産院で聴力検査が出来なかったので、さだかではないのですが・・・。

 とにかく、最初の子ということもあって、赤ちゃんが音に対してどんな反応を示すのかわからず、3ヶ月検診の時には、Tの耳元でささやくとなんとなく振り向いてくれているような気がして、異常はないかな?と自己判断をしてしまいました。

 その後も、首の座りが遅いことや頻繁に高熱を出していたことばかり心配して、耳の聞こえに関しては気にも掛けませんでした。

 ところが、後追いをするようになって様子がおかしいことに気が付いたのです。

 ある日、私が台所に立ってお茶碗を洗っていたところ、お昼寝から目覚めたTが部屋から出てきました。

 その時、私の呼び掛けはもちろん、水の流れる音、お茶碗を置く時のカチャカチャと鳴る音にも気付かなかったのです。

 その他にも、度々不思議に思うことは多くありました。

 それでも、私は生後10ヶ月のTを託児所に預け、仕事に出てしまいました。

 そこの保育士さんにTの様子を伺うと「遊んだ後のおもちゃの片付けやお食事の時間の誘い掛けにはなかなか応じず、他の子と一緒に行動をとってくれなくて困っています。」との話でした。

 その事を主人に話したところ、「以前から気になっていたのだけど、Tは耳の聞こえが悪いのではないのか?」と、言うのです。

 まさかとは思いつつも、その頃のTの様子を見ていると、日々、笑顔が消えていき、話し掛けてもいまいちの反応、自分の思うようにならないとかんしゃくを起こすのが手にとるように解りました。

 さすがにのんきに構えていた私も一度耳鼻科に連れて行くことにしました。

 偶然にも私がかかっていた耳鼻科の先生が金沢大学病院の出身だったので、Tの音の反応を見て、すぐに

「聞こえが悪いかもしれませんね。紹介状を書きますので、金沢大学病院で検査を受けて下さい」

と言われ、検査を受けることとなりました。

 やはり、検査の結果はABRで80dBで耳鼻科の先生によって高度難聴と診断されました。

 正直なところ、その時点では80dBと聞いても、どれほど重いものなのかピンときませんでした。

 言語訓練担当の能登谷先生から

「今なら、補聴器を着けて言語の訓練を受ければ健聴のお子さんの言語能力に追いつきますよ」

と言われても、

「言語の訓練ってどんなことをするの?うちの子、訓練を受けなければならないぐらい聴力が悪いの?」

と、その時は、言語訓練の必要性が理解出来ませんでした。

 なぜなら、私とは血の繋がりは無いのですが、伯父が先天性の難聴で補聴器を着けて普通に話しているのを幼い頃から見ていたので、Tも補聴器さえ着ければなんとかなると思ったからなのです。

 けれども、午後の福祉会館での難聴の子供達の様子、それと、金沢方式の取り組みを見て、難聴児が言葉を取得するには本人だけでなく、その親にも並大抵ではない努力が必要だということを知り、急に不安を覚えました。

それが、ちょうど1歳の誕生日を迎えたばかりの頃でした。

<1~2歳代>
 それから、すぐに仕事を辞め、迷いもなく金沢方式で言語の訓練を受けることを決心しました。

 最初に、補聴器を着けた時のTの反応ですが、突然、様々な音が耳に入ってきて驚いてはいたものの、生まれつき好奇心旺盛な性格だったせいか、嬉しそうにしていました。

 お陰で聴覚の理解は進みました。

 次に、文字に対する反応はというと、貼ってあるカードにも、又、私がマッチングをしてみせるのにも、不思議そうにじっと見入っているだけ。

 なんとかして、文字を理解しているかどうか確認を取りたいと思ったのですが、本人は聴覚で理解出来るのに、なぜマッチングをしなければならないのか疑問に思ったようで全くしてくれませんでした。

 そうしている内に、あっっという間に10ヶ月が過ぎてしまいました。

 そして、とうとう私は能登谷先生に「どうしたら良いのかわかりません。」と、弱音を吐いてしまいました。

 すると、先生から「お母さんが頑張ることが出来なければ、子供も頑張れるわけがないでしょ!」との、お叱りを受けたのです。

 けれども、その時の私はその言葉で立ち直るどころか、「自分は駄目な母親なのね。」といっそう自己嫌悪に陥ってしまいました。

 そんな時、先輩のお母さん方には、「まだ、諦めるのは早いわ。きっと、先生はTちゃんママなら出来ると思って言って下さったのよ。」と、励ましていただきました。

 そして、友人には、「あなたは、内心どうして私は障害児を授かったの?と疑問に思っているかもしれないけど、それは神様があなたなら障害を持って生まれた子を育てられると思ったからよ。」と、言われ、自信を持って子育てに取り組めるようになりました。

 また、母には「これは、Tちゃんだけでなく、あなたにとっても試練なのよ。」と、言われ、Tと苦労を共にしていかなければいけないと気持ちを切り替えることが出来ました。 

 そこで、私は、もう一度、Tと向き合ってみることにしました。その頃、Tが夢中になっていたのがシール貼り。

 そこで、思い付いたのが絵カードと文字カードの裏に、それぞれマジックテープを貼り付け、専用の布の上でマッチングをするという物。貼ったり剥がしたりする動作、そして、剥がすときのベリベリッと鳴る音、それが加わっただけで面白がって、マッチングをしてくれるようになりました。

 このようなちょっとした工夫で2歳代には、助詞の活用を主に教え3語文までの受信と2語文の発信が出来るようになりました。


<3歳代>
 3歳代に入ると、課題は“疑問詞や副詞の活用・名詞や動詞のイメージを育てること・3~4コマストーリーで順序立て・なぞなぞ遊び・事の因果関係・場面、場面に応じての気持ちの理解・リズムを身につける為の音遊び”など沢山の課題が次々と出されました。

 この頃は、まだまだ遊び感覚で課題に取り組め、スムーズに出来ていたと思います。

<4歳代>
 4歳代に入ると受信が6~7語文まで伸び、3語文の発信が出来るようになりました。

 それに加え、ひらがなを書くようになりました。

 また、課題は“接続詞の活用・助詞入れ・物語の読解・時計・数や大きさや長さなどの比較・倒置・使役・受身・物の違い・熟語・動作が同じだけど使う動詞が違う・~したらどうするの?といった問題解決・職業・あいさつ言葉・しつけ・しりとり・なぞなぞ遊び”と、難しくなり、つまずくこともありました。

 中でも問題解決が苦手でした。

 答えを選択するものとは違い、自分で考えて答えなければならなかったので、難しかったと思います。

 どんなに考えても、答えが浮かびあがらない時は浮かびあがらないものです。

 そんな時は母が答えると、その答えを聞いて、「あー、そっかー。」と理解してくれました。

 この年代にはTを取り巻く環境に大きな変化があり、精神面にもかなりの影響が出ました。

 一つは妹ができたことです。

 まわりのお友達に兄弟がいることを羨ましがっていたので、妹ができかわいがってくれると思っていたのですが、お兄ちゃんぶるどころか赤ちゃん返りがひどく、それまで自分で出来たことも全て放棄してしまいました。

 「ママ、靴を履かせて!御飯を食べさせて!歩けないから抱っこして!」と言ってきたり、わざと玄関で排泄をしたりと本当に参りました。

 環境の変化のもう一つは保育園に通いだしたことでした。入園にあたり園長先生にTの聴力や言語能力について、そして性格などを説明しました。

 幸いにも、園長先生のご主人が突発性難聴だった為、コミュニケーションをとることの難しさや不安に思う気持ちをよく理解して下さいました。

 そして、Tに一人専属の先生をつけて下さいました。だからといって、いきなりTを私からつき離すのはかわいそうだったので、保育園に慣れるまでしばらく一緒に通いました。

 見ていると、とにかく、毎日のようにトラブル続き。

 お友達が親切にしてくれることがTにとっては迷惑に感じられ、すぐ怒るは、売られたけんかは必ず買うわ、善し悪しがわからずいたずらをするわ、悪いとわかっていながらも周りの気を引くためにいたずら(部屋に隣接しているトイレからホースを引っ張ってきて部屋に水を撒いたこともある)をするわ、で、私はいつもTの代わりに謝っていました。

 病院では、能登谷先生の言語外来の部屋でおもちゃを投げて壊したり、窓から外へボールを投げたりしたこともありました。

 正直なところ、訓練よりも先生や周りのお友達やお母さん方に迷惑を掛けるのではないかと思う気持ちからか、毎週、福祉会館へ通うのは気が重かったです。

<5歳代>
 こうした苦悩な日々が過ぎ、5歳になったある日、Tが「ママと勉強するの、楽しい!」と言ってくれました。

 突然の発言だったので、本当に驚きました。単なるお世辞だったのかもしれませんが、やはり、言われると嬉しいものです。

 思わず、ぎゅっと抱きしめたのを覚えています。 

 この頃から、Tは課題に積極的に取り組むようになりました。

 周りの人からみると、Tはわがままでやんちゃに見えるかもしれませんが、家で私と二人で居る時は本当に静かで、大好きなブロックやパズルをしたりお絵かきをしたり本を読んでいる子です。

 そしていざ、課題に取り組みだすと1時間以上椅子に座っていられました。

 課題につまずいても逃げるというより、悔しくてその場で泣いてしまう方でした。

 「どうして、頑張ってお勉強をしようと思ったの?」と、私がTに尋ねたところ、「僕、保育園のお友達ともっとお話出来るようになりたいから。お勉強したら、お話するの上手になるでしょ。」との理由でした。

 更に「上手く話せないの?」と尋ねると「うん。僕はお友達が言っていることはわかるんだけど、お友達は僕の言っていることがわかんな~いって言うんだよ。それに、おままごとも上手に出来ないし。」と、困っていることを詳しく話してくれました。

 もちろん、Tが困っていることは必ず能登谷先生に報告をしました。

 この年代に出された課題は、“物語の中で使役と受身の確認・物の数え方・動詞の語尾の変化や使い分け・丁寧な言葉使い・慣用句など”で、表現力を身に付けるのに適したものでした。

 その成果が出て、Tも話すことに自信がついたようでした。

<6歳代>
 6歳代は、T自身が絵を見ながら(描くのは苦手だったので)お話と質問を作ることに挑戦しました。

 質問には、私が答えてあげました。

 それまでは、私が問題を作り、Tに答えさせることが多かったので、急に反対の立場になりTは戸惑っていたものの、私がわざと間違えたりすると、「ママ、わかんないの?僕、わかるから教えてあげようか?」と、教える立場に立つこともあり、だんだん慣れていきました。

 そのほかにテーマを挙げて、家族やいとこ達と会話のやり取りを楽しんだりもしました。

 また、社会性を身につけるために、“どう思う・どうなる・どうして~なの・どうしたらいいの・どんな時にどんな気持ちになるの”といったことも、かなり子供と話し合いをしました。

 まだまだ、言っていることと行動が伴わないことも多いのですが、それでも年々少しずつ落ち着いてきているように思えます。

 いつか立派な大人になれることを信じて、長い目で見てあげたいと思います。

 こうして、難聴が発覚して金沢方式を始めて、早5年半が経ちます。

 先生には「ここまで、やってこれたのはTちゃんのおかげよ。感謝しなさい。」と言われました。

 Tちゃん、本当に頑張ったね。あなたにとっては厳しいお母さんだったと思うけれど必死についてきてくれてありがとう。

 あなたが、「小学生になったら、自分で勉強するから大丈夫だよ。」と、言えるようにまで成長したことをお父さんもママも嬉しく思います。

 そして、パパ、週末になると、私が一人ゆっくり出来るようにと、子供達を遊びに連れて行ってくれたり、温泉に連れて行ってくれたりしてくれてありがとう。

 お陰で課題作りや家事に専念出来ました。

 また、仕事で疲れているにも関わらず、私がすぐに体調を崩すばかりに、食事の用意までお願いすることもありましたね。

 本当に助かりました。

 そして、亜依ちゃん。あなたが生まれてきてくれて、Tちゃんは頼もしいお兄ちゃんになりました。

 ずっと、仲の良い兄弟でいてください。それから、福祉会館でお世話になったお母さん方やTと仲良くしてくれたお友達、本当にありがとうございました。

 最後になりましたが、能登谷先生には、金沢方式による正しい日本語を習得する方法をご指導頂き、心より感謝申し上げます。

 なんとかして聴覚障害者を助けたいと思う先生の熱意には心が揺さぶられました。先生と出会うまでの私は一人よがりな人間でした。

 先生と出会い、人は皆支え合って生きているということを身に持って感じ、信頼ある親子関係を築くにはどうしたら良いのか悟らせていただきました。

 親が我が子の為と思い、ただ厳しく怒っても、それが我が子にとって必ずしも愛情とはとれないかもしれないということ。

 これからも、このことを常に自分に言って聞かせ、優しい母でいられるよう努力していきたいと思います。

 Tちゃん、あなたが大人になった時、この幼児期を私とどのように過ごしたか、あなたの記憶に残っているかどうかわからないけれど・・・、私にとっては楽しかったことも辛かったこともかけがえのない思い出です。

 これからも、お父さんとお母さんはTちゃんのことを見守り続けます。

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