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『ことばを獲得するための二人三脚が始まった』
I・Nさん(聴力80dB)のお母さんの記録

金沢大学大学院医学系研究科
教授 能登谷晶子 編  金沢方式研究会 発行
『ことばを獲得するための二人三脚が始まった』より

1.Nの誕生
待ちに待った子どもでした。

長女Nは昭和44年9月10日に生まれました。その前年に流産をしていましたので、元気な産声を聞いた時は本当にうれしく思いました。

妊娠が判って5ヵ月間は切迫流産の可能性があり、 食事とトイレ以外ほとんど寝たきりで過ごしたので、どこかに障害があるのではないかと心配 しながらの出産でした。

外見は五体満足の2,800グラムの女の子と対面した時は、分娩台の上でホッと一安心しま した。
1週間病院で過ごした時も、実家へ帰って1ヵ月程助産婦さんに来てもらって、お風呂に入れてもらったり、おっぱいやミルクを飲ませた時も難聴だということには何にも気付きませんでした。

大きな病気もしないで、1歳の誕生日を迎えま した。

このころから予防注射をいろいろとしなければならなくなって、保健所へ行きましたが、よその子と比べてちょっと泣き方や恐がり方が激しいかな、と思うところがありました。
けれども私は大人でも注射はいやなものだし、ましてや1歳の子がいやがるのは無理もないものと思っていました。

Nと1歳9 ヵ月違いで弟が生まれました。その頃になると、そろそろことばを話さないことが気がかりになってきました。
近所に同じ年の子ど もがいて(6 ヵ月ほど遅く生まれている)、もうちゃんと親と会話できるようになっているのです。

ここまで来ると、のんきな親でもどこか悪いのではと思いはじめていました。
もしや聞こえていないのではと思ったこともありましたが、 父親(夫)は「自分たちの子にそんな子ができるはずがない」と言い切りました。

けれども私はいくつか思い当たることがありました。

例えば外ではもちろんですが、家の中で後ろからいくら「N」と呼んでも振り向きませんでした。
その時も親バカの私は、一生懸命遊んでいて集中しているからと思い、またよその子がテレビのコマーシャルをよく見るのにNが見なくても、よその子はよその子、NはNと思っていました。

でもこの頃になると、よその人が大好きで、集金に来る人にまで抱っこしてくれというような しぐさをしていました。Nにとって母親は『すぐ怒ってしまう人一になっていたのでしょう。

2歳6ヵ月頃にテレビで『ことばの遅い子の原因一として、六つ程の要素を挙げていました。 その要素を消去法でチェックすると、残ったものが『聞こえの悪い子』というものでした。

ことばの遅い子の原因

一瞬スーッと血の気が引くような思いでした。そして耳が原因だと確信しましたが、当初どこへ連れて行っていいのか解りませんでした。またNが暴れるので、一人で病院に連れて行く自信もありませんでした。

昭和47年7月、実家の母に付いてきてもらって、金沢大学附属病院の小児科に行きました。 そこでは「下に弟が生れたから親にかまってもらいたくて話さないのでしょう、いわゆる赤ちゃん帰りですね。」と言われ、先生が手をたたくとNが振り向いたので、「心配いりません」と診断されました。

しかしこの頃になると、耳が悪い、聞こえない ということを確信していましたので、「もしかして耳が聞こえないかも知れないと思うのですが心配です。」と話しました。

「そんなに心配ならここ の耳鼻科ですぐ診てもらいなさい」ということで、3階の耳鼻科に行きました。すぐ診察してもらえるものと思っていたのですが、「今日はだめです。予約を取ってください」ということで、少々がっかりしました。

予約の日に弟を母に預けてNと二人で病院に行きました。Nは既に2歳10ヵ月にもなつていました。

Nには病院はいやな所というイメージがあり、親の言うことを聞かず、すごい暴れようでしたが、どうにか聴力検査をしてもらいました(後になって知ったことですが、当時鈴木先生はNには難聴だけでなく、他にも知的障害があると思われたそうです。)。

その結果、鈴木先生より「今度、お父さんと一緒に来てください」と言われました。
私は「難聴ですか」と尋ねましたところ「そうだと思いますが、詳しいことは今度話します」と言葉を濁されました(このことも後になって知ったことですが、断言して母親にショックを与えないように間をおいたそうです)。

しかし私は「やっぱりそうだったのか」と、原因がはっきりしてむしろホッとしていました。 そして昭和47年8月8日に「Nは難聴である」とはつきり宣告されました。

Nはもう1 カ月で3歳になるという時でした。

2.難聴の発見と補聴器装用
「お母さん、お子さんは難聴ですが、ろう学校にしますか、お母さんが教えますか?.」とい う言葉が、鈴木先生からの第一声でした。

耳が聞こえないのなら手話の世界しかないのだろうかということも、少しは覚悟していましたが、自分の娘が手話を使うということには大きな違和感があり、とても想像できないことで した。
続いて鈴木先生から「お母さんが教えますか」と聞かれた時、これは手話ではなくそれ 以外の何か良い方法があるのだと思い、その時すぐに「はい」と答えていました。

先生は私の「いつ話せるようになるのですか」という、今から思えば唐突な質問にも、悠々と「お母さん、しゃべれなくてもいいではないですか、書いたものを見て理解し、自分がきちんと書いて答えられれば」とおっしゃいました。

その時も私はなるほど、と納得していました。

それからNとの言葉の獲得への二人三脚が始まりました。

私を直接指導してくださったのは、その当時金沢大学附属病院の耳鼻科言語外来におられ、鈴木先生の下で言語指導をしておられた相野田紀子先生でした。

最初に出た宿題が、娘の発する言葉を全て書いてくるようにというものでした。2歳1ヵ月 にもなると健聴の子は普通に会話ができますが、当時Nが何か声を出して、こちらが理解できるのは50語ぐらいでした。

そして最も大変だったのは、難聴による二次障害が出ていること でした。

いわゆる情緒不安定で、白衣の先生を見かけると怖がって外来の部屋の中へ入らない、奇声を発する、もちろん母親が呼んでも叫んでも知らん顔、そのうち母親に叩かれて泣いてしまう、 というように情緒の面では手のほどこしようがなくなっていました。

そんな状態の中で鈴木先生から言われたことは、「この子に補聴器をつけることが難しいだろう、つけることができれば90%成功だ」と。

病院で紹介された補聴器を買い、まず耳の中に異物が入ることに慣れさせるために、母親の私がNに見えるように、テレビのイヤホンだけを付けて見せるようにしました。それからN にイヤホンをつけました。購入した補聴器は箱型のものだったので、手作りで補聴器を固定するベルトを作り、一日一日少しずつ慣れさせるようにしました。当時の記録には『離乳食の要領で』と書いてあります。

案ずるより産むが安しといいますか、先生方もむずかしいだろうと心配しておられた補聴器の装用は、大した拒否反応もなく八月半ばから始めて10月下旬には一日中装用することが出来るようになりました。

その時、「N」と後ろから呼んで振り返ってくれた時のうれしかったことが強く印象に残っています。

(当初は補聴器の管理を親がしていましたが、徐々に自分で積極的に付けるようになり、少 しの間も補聴器が手放せなくて、お風呂からあがってすぐ寝る時にでも、自分で補聴器をつけるようになりました。5 歳9 ヵ月頃に完全に自分で音量を調節できるようになりました。)

3.絵力ード作り
補聴器をつけることと並行して、先生から出された宿題は絵力ードづくりでした。


白い画用紙を切って片面に絵を、もう片面に文字を書くのですが、最初私が『ねこ』のつもりで絵を描 いてNに見せると、「ワンワン」と言ったので(犬と猫の区別はついていました) それ以来絵力ードの下絵は父親の仕事になりました。

手作りカード

色付けは私です。夜、子ども達が寝静まった後、 夜なべして作りました。本当にこんなにたくさん教えるものがあるのだと思いながら、描くことだけで追いつかなくて、いろいろな雑誌から絵を切り抜いて貼ったりして力ードを作りまし た。

名詞の時はそれでもよかったのですが、動詞を教えるようになるとだんだん難しくなって、 先生のアドバイスで『三省堂こどもことば絵じてん』を購入し、これでずいぶん教えることができました。動詞を教えるころになると、文字も読めるようになっていたので、『はしる』と書いたものを見せて動作させる、というようなこ ともできるようになりました。

名詞の絵力ードは角に穴をあけ20枚ほどにして、ひもを通してテレビのチャンネル(その当時は、手で回すものが本体にくっついていた)にかけておき、いつでも子どもが持ってきて遊びながら見ることができるようにしておきました。

全て覚えたと思えるころに、新しい力ードに変えました。今でもそのカードは大切に箱に保管しています。

日常生活では、補聴器をつけて少し聞こえるようになったのか、こちらのいうことばをオウム返しにまねをするようになりました。

4.幼児期・ナースリースクール時代
鈴木先生から「早く集団の中に入れなさい」と言われていましたので、3歳7 ヵ月で北陸学 院短期大学附属幼稚園のナースリースクール(注1)に入園させました。

園の中では当初情緒不安定で、先生方にずいぶんお世話をかけたようです。個別に遊ぶ時は好きなことをしていたようですが、集団行動の紙芝居や先生のお話を聞くというような時になると、じっと座っていることができなくて、奇声を発して飛び回り、皆の邪魔になるので、1人の先生が別室で付きっきりで世話をしてくださいました。

しかし夏休みの少し前から(3 歳9 ヵ月)情緒も安定し、ナースリースクールでも家でも人 の話をよく聞くようになりました。補聴器をつけはじめて1年を過ぎようとしていた頃でした。

ナースリースクールを終えるころに、Nをよく見ていてくださった先生から「よその子と比べて、文法的に正しい文章を話す」、そしてまた「ピアノに背を向けさせて習った歌を弾 いてやると、ちゃんと聞き分けることができる」といううれしいお話を聞くことができました。 何よりもこのナースリースクールの時代に、毎日毎日先生が膝にのせて絵本を読み聞かせて下さったことが、後にNが本好きになった由縁だと、今でも感謝していることです。

(注1) ナースリースクール/ 北陸学院短期大学の附属で、幼稚園とは独立して、三才児の保育をするところ。現在はこの名称は使用されておらず、第一幼稚園に含まれている。

5.幼児期・年中から年長時代
ナースリースクールも終え、北陸学院短期大学附属第一幼稚園に入園が許されました。ナー スリースクールの時もそうでしたが、原則として親が園まで送り迎えすることが決められていました。

自宅から幼稚園までは遠かったので、朝父親が出勤する時に弟と4人で途中まで車に 乗せてもらい、それから2人の手をひいて園まで送り、とんぼ返りで弟を連れてバスで家まで帰り、一時間ほどで家事をすませて、またバスで迎えに行きました。

年長になった時、弟がナー スリースクールに入りましたので、Nのお弁当のある日だけ(ナースリースクールは午前1 時20分までの保育である) 先生にバスに乗せてもらい、私が家の近くのバス停まで迎えに行きました。一般のお客さんと一緒なので心配しましたが、降りる停留所を間違えないで「ただいまー」と元気にバスから降りてきました。親にとっては大変な3年間でしたが、幼稚園の教育方針を信じ、子どもの成長を願ってこの幼稚園を選んだことは間違っていなかったと思ってい ます。

Nが年長になった年には、その前月(3月) に第3子を出産していましたので、その子を家に寝かせての園までの送り迎えでした。途中からバスで一緒に乗ってくださる先生がいましたので助けてもらいましたが、子どもは近所の子と違う幼稚園だからいやだとか、遠いからいやだとか、一度も一三ロいませんでした。私も仕事のようにして末っ子が卒園するまで、8年間幼 稚園に通いました。

どんな障害であれ我が子が障害児であれば、集団の中ではそれが目立たないようにといつも親は願っているものではないでしょうか。私もNが集団で行われる行事の時は皆に迷惑がかからないように、1人だけ目立たないようにと思い、先生に「邪魔なら出してもらわなくてもいいです」と言ったこともありましたが、幼稚園の先生方は分け隔てすることなく平等にしてくださいました。卒園の時は一人目立つこともなく、皆と一緒に1人ずつ終了証書をもらうことができました。

Nにとって、6歳までの大切な時をよき指導者に恵まれ、よい幼児教育を受けられたこと は、一生の財産だと思っています。

忘れられない思い出は年中組の時(4歳9ヵ月)、「幼稚園の先生になりたいからピアノを習いたい」と言い出したことです。

私自身、小さい頃ピアノに憧れて習いたいと思っていたので、 女の子を持ったらピアノを習わせたいとは思っていましたが、難聴だとわかった時にあきらめていたのです。

でも自分から習いたいと言ったものを止めさせるのもかわいそうだと思いました。しかしながら、難聴の子に教えてくださる方がいるだろうかと迷っている時、幼稚園の先生から「私が見てあげます」と言ってくださいました。

家でも練習が必要なのでピアノを購入し、個人レッスンをお願いしました。しかしこれも先生の家へ伺うというものでしたので、幼稚園が終わると弟と2人を連れて、30分ほどのレッスンに通いました。晴れの日はいいのです が、雨や雪の日は大変で、私の方がやめたいと何度思ったかわかりません。

途中ピアノの先生がご結婚されて先生が変わったのですが、Nは中学2年生の終わりまでレッスンを続けました。そしてこれが後に大学の教育課程の単位を取る時に役立ちました。

幼稚園から帰ってくると、言葉の訓練が待っています。4歳6ヵ月の頃から平仮名に興味を持つようになり、4歳9ヵ月頃には自分でよく聞き取れない言葉があると、私に書いてくれというようになりました。

この頃になると、絵力ードでなく文字カードで訓練をしました。相野田先生には「人に迷惑 をかける時、そして命にかかわる時以外は叱らないで」と言われていたのですが、ついつい声をあらげて怒っている時がありました。今考えると、親中心でものを考えるので日常生活の中でもついつい怒ってしまっていたのです。

文字のカードの例

訓練の中でNにとって一番難しかったものは、一冊の本を暗記するという宿題でした。 一番好きな本をということでしたが、なかなかうまくいかず、私がついヒステりックに怒ってしまい、とうとう一番好きだった『おいしいものの好きなくまさん』(ももちゃんシリーズ) が一番嫌いになってしまいました。それが唯一、心残りのほろ苦い想い出です。

しかしいやな難しい訓練だけではなく、楽しくやれたものもありました。

例えば「向こうの部屋にあるテーブルの上の赤ペンと、棚の上の白い紙を持って来て」というようなものは、弟と一緒に遊びながらしていました。ドリルは算数の方が好きで、よく勉強しました。国語の読解も進みましたが、自分が経験したことがないようなもの、例えばヘリコプターの話などが出てくると、いやがりました。

そこでドリルをそのままさせるのではなく少し文章を短くし、実際にへりコプターを見せることができない場合は、絵や写真で見せてからさせるとうまくいくようでした。しかし集中してできるのは15分程だったでしょう。

また父親が休みになると外のいろんなものを見聞するために、家族で山や海などいろんな所へ弁当持参でドライブをしました。

Nが5歳になった頃、相野田先生が金沢医科大学病院の耳鼻科に移っていかれました。そこで私も2週間に1度、医科大の方へ通うことになりました。また聴力検査の時以外は私が一人で伺いました。

最初の頃のNと「一緒に通院したことを思うと、うそのように楽になりました。以前はバスの中で走って私が運転手さんに叱られたり、医科大へ行くため電車に乗ろうとホームで待っていると、ホームの端から端までかけっこしたりなど、今から思うとよく怪我もせずにすんだものだと思います。

医科大に何度か通ううちに、環境にも慣れたのか、 金沢駅から内灘駅までの途中の停車駅の名前を覚えたり、窓の景色を弟と2人で楽しんだりすることもできるようになりました。結局医科大の相野田先生のところへは、小学一年生の夏休みに発音の練習に通ったのが最後になりました。

6.幼児期における家での訓練と発音
家でよくした訓練は、よく似た言葉の聞き分けです。2枚の絵力カードで、例えば『橋と蜂』、 『蟹と紙』、『釣りとすり』など、絵の方を見せたり、文字の方を見せたりして最初は私の口元 を見せて練習させ、それから口元を隠してカードをとらせてみる、ということをしました。後になってNに聞くと、大変難しくいやな訓練だったと言います。

私はいいと思うことはあまり疑わないでやってしまうところがあるので、この指導法(金沢 方式) を始めて、Nが[ロに日に言葉を獲得し、情緒面も落ち着いてくるのがうれしくて励みになり、先生から出される宿題、家庭での訓練はきちんとしようと決めて、弟を横に座らせながら3人でしていました。

今考えると自分ながら本当に真剣になっていたと思います。

発音の練習は福祉会館(石川県中央児童相談所) で、鈴木先生が小学校入学前の1年間、週に一度してくださいました。

この頃になると『さ行』が特に言いにくそうだったので、そこを重点的にしてもらいました。鈴木先生はNが飽きてくると、時に手品をして一緒に連れていっている弟をも楽しませてくださいました。その時の手品のことは今、30歳を過ぎた子ども達もよく覚えています。

家での発音の訓練は私の方が下手だったのか、せいぜい発音記号を見せて、うまく出ない 『さ行』を注意することぐらいでした。

教科書の朗読では、途中に入っている『さ行』をきれいに発音するのですが、文章のあとの「です」というような『す』が、聞き手に届かないということがありました。注意すると意識して言うのですが、大変不自然に聞こえました。(N は声を出して読むことが大好きだったのに、低学年の時に詩の朗読をして教室の皆に笑われて以来、それをしなくなりました。)


7.小学校時代
80dBという失聴がありながら、親が行き届かなかったために発見が遅れ、訓練をはじめたのが3才近くという遅いスタートでしたが、相野田先生はじめ発音を積極的に指導してくださった鈴木先生のおかげで、小学校入学前には言葉の理解度は普通の6歳児と変わらなくなっていました。

最初私は「Nは北陸学院の幼稚園に通園したのだし、女の子なのだから小・中・高とその まま進学できる北陸学院の小学校へ進ませよう」と少しの問題意識も感じないで、考えていました。この小学校には2人の難聴の先輩が通学していたこともその理由の一つでした。

ただ自宅から遠く、バス通学でも乗り換えがあり、慣れるまでは私がついていくしかないかなあと思っていたのです。

しかしもう願書を出さなくてはという時に、父親が難聴の大先輩である中島敦子さんのお母さんに、Nの小学校入学の話をすると「地域の小学校へ通わせたらいいですよ。子どもにはいろんな可能性があるし、親がレールを敷くのも悪くはないが、子に選ばせるのもいいのでは」というアドバイスがありまし た。

それで、三晩ほど両親で話し合いました。私は「Nには苦労しないで、いじめなど受けないで、楽しい学校生活を送って欲しい。女の子だからどうにか自分が食べていくだけの収入を得る人間になってもらいたい」と思っていたので、中島さんの言葉は思ってもいないことでしたし、当時生徒数の多いことで知られた地域の小学校への入学は考えてもいませんでした。またいじめの問題も耳に入っていて心配でした。

けれどもいつまでも親がついていてやれるわけではないし、Nがどんな環境でも自分で解決していく力をつけてやるには、地域の小学校の方がいいかもしれないと、Nの持っている可能性も信じ、父親の意見に押し切られたような 形で10月の就学児適性検査を受けました。その結果『ことばの教室』へ通うことを条件に入学が許可されました。

小学校時代は新学期になると新担任に「座席は前から二番目にすること、当時箱型の補聴器を胸に付けていたので、ボールなどが勢いよく当たらないことや、補聴器に水がかからないようにすること」をお願いした程度です。

しかし先生によっては、お荷物をかかえてしまったという様子の人や、あるいははっきりと「なぜ、ろう学校へやらないのですか 」と言われる先生もいました。そのつど「お願いします」としか言いませんでした。私には「普通なら親の方が先に死ぬ、その時に安心して死にたい」という思いがあったので、何とか学校に受け入れて欲しいと願っていました。

Nにとって一番つらかったことは、小学4年生の時の『いじめ』にあったことだろうと思います。例えば椅子の上にボンドをおいて「座れ」と言われ、ブルマ ーにボンドをべったりつけて帰ってきたことがありました。

また教室の入口の引き戸に黒板消しをはさみ、そこを「戸 を開けて通れ」と言われたりしました。

「もう学校へ行かない」と言って毎日のように怒って帰ってきました。私も毎日のように放課後担任に話しに行きました。

担任は「どちらも悪いのでは」と言うばかりです。

私は教室へ行って同じクラスの子ども達に、いじめをどう思っているのかと聞いたこともありますが、皆「いじめっ子が恐いので助けられない」と言いました。 (いじっめ子は4 人程いました。その何人かは大人になってからも問題を起こしてます)

いじめの問題には色々あると思います。

いじめられる側にも問題があると言われますが、私個人の意見ではどういう原因があれ、一人の人間を何人もが集団でいじめることは悪いに決まっていると思います。

「いじめは悪い! 」と、どうして家庭でも学校でも教えないのでしょ うか。

本人はいじめとは思っていないのかも知れませんが、相手がいじめと感じるならいじめ なのです。

これはもちろん家庭にも原因があるかもしれませんが、クラスをまとめる担任の能力不足・熱意のなさにも原因があると思います。

小学5年生になる時、父親が校長先生に頼みに行って担任を男の先生にしてもらいました。この時からいわれのないいじめはなくなりまし た。そして小学校の6年生の時は、お友達にも担任にもめぐまれて、楽しい学校生活を送れたようです。

小学校6年の時の担任だった西村知子先生が、言語障害児を持つ親の会の機関誌『あじさい』 第19号(昭和57 年5月30 日発行) に書いていただいた文章にそのいきさつが記されています。

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私の通勤道は田んぼ道。ひばりのさえずりを聞きながら、畔に咲くたんぽぽの花を見る時、今春送り出した6年2 組の子どもたちのことを思います。

嵐の中でも雪の下でも、大地にしっかりと根をうちこんで、たくましく成長するたんぽぽ。たくさんの小さい花ががっちりと結び合って、一つの花を咲かせるたんぽぽ。この花のように、苦しい時も45人が一団となって伸びていってほしい。 そんな願いと信念を持って一年間、共に歩んできました。

INさんはその一人です。最も逞しく、美しい花を咲かせた彼女。彼女の成長はそのまま学級の成長に発展していきました。殆ど跳べなかった跳び箱を自由にこなすようになり、今にも足をつきそうになりながら、100mを見事に泳ぎきり、といった運動面の伸びをひとつのきっかけとして、級友から『N、N』 と親しまれ、班長になり、学級書記となり、学級のリーダーとなっていった彼女。

難聴という障害を持つが故に、いじめられ、内にこもりがちだった彼女を知っ ている4人(5年からのクラスメイト) は、彼女の一場面の成長と、その裏にある努力に驚き、感動し、励まされて、ようし自分もやるぞと意欲を燃やしたと思います。

また己の成長、変化を素直な喜びで認めてくれた4人がいたからこそ、Nさんは常に積極的に学校生活を過ごすことができたのだと思います。

Nさんは卒業アルバムに『たんぽぽのように』という文集を寄せました。私は涙を流しながら、この文章を読みました。

「私は先生の言葉の通り、強く生きぬくたんぽぽのようにがんばってきたと思います。今では、たんぽぽの大きな花をさかせました。くいのない小学校生活だったと思います。」と言いきり、最後に「これからは、私のように障害を持った人達が、たくさん入学してくると思いますが、がんばってほしいと思います。

『たんぽぽのように… 』」と結んでいます。


つらい事もたくさんあったと思います。しかし、卒業の巣立ちの時にこれ程までに、力強い言葉を残していった彼女。その横に並ぶ4人の子ども達に、人間の強さを感じさせられました。

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卒業式にはNの目に涙がありましたが、私もこれまでの12年間が一度に思い出されて、涙がとまりませんでした。

金沢大学大学院医学研究科 教授 能登谷晶子/編 金沢方式研究会 発行の 『ことばを獲得するための二人三脚が始まった』には、上記INさんのお母さんの手記 (その後、Nさんが大学入学される頃まで)と、RFさん(105dB)のお母さんの手記が載っています。

また、INさんご自身の手記や、金沢方式でトレーニングをした他の親御さんの手記も載っています。

本書をご希望の方は、書籍の案内をご連絡下さい。

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