YSちゃんのお母さん
卒業感想文集(2007年)
私:「S~早く用意してご飯食べんと幼稚園遅れるよ~」
S:「はいはい、いまやりま~す」
私:「しゃべってばっかりいないでちゃんと食べてちょうだい!」
S:「だって、Sだってパパとお話したいもん!!」
私:「着替えとってきて!」
S:「あ~も~寒い・・・」
私:「寒いじゃない!」
S:「だって・・・」
「だってじゃない!!」
とこんな具合で我が家の毎日が始まります。
今から5年前娘Sがこんな言い訳が出来るようになるなんて、考えてもいませんでした。
【S誕生】
平成12年10月念願の子供が誕生しました。名前はS。
この子が居る所、全ての人が幸せになるように・・・と願いつけた名前です。
産まれたばかりのSはクリクリおめめのとても可愛い元気な女の子。
でも、何かが違う・・・そう、青い目をしていたのです。
「どうして青いのだろう?指は・・5本。反対の指は・・5本ある。足は・・・」と全身を見回しました。
その時には何の異常もないと思い退院後はごく普通に新しい生活を楽しんでいました。
乳児の定期健診の際にもひっかかることもありませんでした。
ただ、体の発育が遅く度々保健師さんから連絡がありました。
少しずつ出来るようになっていることを伝えると「大丈夫ですね」と言われたので安心していました。
しかしやはりこの目の色が気になり、生後6ヶ月の時、県立中央病院の眼科を受診しました。
その時の医師からの一言・・「この子は将来弱視になりますよ。」とあっさり。
「えっ?弱視って?」
「つまり見えなくなります。まだ小さいのでどうする事も出来ません。3歳になった頃また来てください」
そう言われて3歳まで放っておく親がいるはずがありません。
その後すぐにかかりつけの小児科の先生に紹介状を書いてもらい金沢大学病院の眼科へ行きました。そして、定期的に検査をしていくことになったのです。
【難聴発見まで】
ちょうどその頃1歳の誕生日を迎えようとしていました。
何せ初めての子育て。
たとえ1歳になろうとも言葉が出ない子なんてたくさんいるはず。
でも、こんなに静かな子も珍しいのかな。呼んでも振り向かないのは遊びに夢中になっているからなの?
比べる子もいないため分からないことだらけでした。
私自身も、目がこんなのでまさか耳まで・・・?ヘレン・ケラー??
耳を疑い最初に思ったことでした。
1歳を過ぎてもまだ歩けないSに小児科の先生は金沢大学病院の小児科を紹介してくれました。
そして早速受診。
「お座りが出来るからゆっくりでも必ず歩けるようになります」
という先生に私は思いきって
「あの~耳が聞こえているのか心配なんですが・・・」
そう言うと先生はSの後ろにまわっってパンパンと手を叩きました。かろうじて振り向いたSに
「大丈夫、ちゃんと聞こえていますよ」
と言い
「そんなに神経質にならなくても3歳までに話せばいいんですよ」
との言葉でした。
なんとなくすっきりしないまま私も仕事をはじめ、たまに保育園に預ける日もありました。
その時は実家の母が送り迎えをしていました。
そして3,4回目に預けたある時保育士さんから
「この子は、耳が聞こえていないのではないかと・・・とにかく一度耳鼻科に行ってみてはどうですか?」
それを聞いた母はすぐに私に病院へ行くようにと勧めました。そして私も
「やっぱり・・・」
という思いで、とにかく早く調べてもらおうと紹介状も持たずに金沢大学病院の耳鼻咽喉科に飛び込んで行きました。
その時初めて、能登谷先生にお会いしました。先生は「早急に検査をする必要があります」
とおっしゃられたものの、紹介状も予約もないまま受診したため結局は1ヵ月後にABRの検査をすることになったのです。
もやもやした気持ちで1ヶ月を過ごしようやくABRの検査を受けて出た結果は、先天性高度難聴。
S1才7ヶ月。今まで全く聞こえていなかったのです。
それと同時に難聴の合併症として体の一部の色素が抜ける病気(Sの場合は目)だという事を知りました。
そして将来弱視になんてならないことも・・・・・
すっきりしました。
自分の子供の耳が聞こえていないとわかって「すっきりしました」というのも変ですが、それもこれも能登谷先生からすばやい対応と安心できるお言葉を頂けたからです。
ずいぶんと遠回りをしてしまったように思い、私は能登谷先生に「1才7ヶ月の発見は手遅れではありませんか?」と尋ねました。
すると能登谷先生は「決して遅いわけではありません。大丈夫、私の言う通りに訓練をすれば必ず普通小学校に行くことができます」とおっしゃってくださり私の不安を一気に吹き飛ばしてくれました。
【訓練開始】
こうして始めた金沢方式での訓練。始めのうちは福祉会館に行っても何をどうしていいのか分からず、はいはいをして動き回るSを押さえつけるのに必死でした。
そんな状態で集団での訓練や聴覚読話など出来るはずがありません。
しかし、「今私に出来ることはここに通うこと。」そう思いとにかく休まず通い続けました。
家では何をしても無反応のSに覚えたての手話で話しかけ続けました。
正直この頃のことはあまり良く覚えていません。
覚えていることはSの力を信じて無我夢中で訓練をしていたこと、そしてある朝突然「アンパンマン」とジェスチャーをつけて言ってくれたこと。
「ようやく芽を出してくれた、この芽を枯らさずに大切に育てていこう」そう思いました。
しかし、補聴器の効果はあまりなく自発語が次々と増えることはありませんでした。コミュニケーションはもっぱら手話で行っていました。
と言っても福祉会館での2週間に一度の手話だけでは日常生活は追いつかず、結局ほとんどとは手話辞典を参考に自分で手話を作っていました。
そのため母子の間でしか上手くコミュニケーションはとれませんでした。
しかし、金沢方式をはじめて1年経った頃にはSも小さくぎこちない手で一生懸命私に話しかけてきてくれました。
「あれ、なに?」
「これ、なに?」
そう言って指差すもの全てを写真に撮ってカードにしたり、得意ではない絵を描いてみたり。
そしてSが興味を持ってくれるように、大好きなキャラクターを使って教材を作ったり。
また最初のうちは文字の覚えが悪く、部屋の壁に数枚の文字カードが貼られているだけでしたが、3歳になる頃には覚えも速くなり壁一面がカードで埋め尽くされる程になっていました。
【人工内耳手術】
Sが人工内耳手術を行ったのは3歳半の時。手術を決めたのはS本人ではなく私たち親でした。
体の発育に遅れがあるため歩行もしっかりとはしていませんでした。
しかしとにかく音のある世界を体験させてあげたいと言う一心で手術に踏み切ったのです。
Sには
「よく聞こえるお耳欲しい?」
と訪ねても何のことかよくわからないままキョトンとした顔で
「欲しい」
と答えるだけでした。
本人のちゃんとした意思がないまま手術の日をむかえました。
「もう後戻りは出来ない」
そう思い手術室に入っていくSの姿を見送った後は、手術が終わるまでお守りを一時も放すことなく握り締めていました。
手術は無事成功!
音入れも何とか終わり、後は嫌がらず装用してくれるか心配しましたが、全く嫌がることもなくすんなりと音に慣れてくれました。
【人工内耳での生活】
補聴器を付けている時のSはそんなにおしゃべりな子ではありませんでした。
しかし、人工内耳を付けてからというもの、今まで覚えた文字や知識が溢れんばかりに言葉になって出てきました。
もちろん家での訓練は今まで通りに続けました。変わったことといえば手話を使わなくなってしまったことでしょうか・・・
4歳になり2年保育で幼稚園にも通いはじめました。
それまでは私とSの2人の生活だったためいきなりの集団生活では問題が多く、迎えに行っては先生と話し合うといった日が続きました。
しかし一方では、あっという間にお友達を作り、その日幼稚園であった楽しかったことを話してくれたりもしました。
また、幼稚園でSが一人の男の子に頭を叩かれてしまった時、他のお友達たちがみんなで、「さっちゃんのあたま、叩いたらだめねんよ~」と助けてくれるといったことがありました。
このように幼稚園でもみんなに守られながら、2年間通うことができました。
純粋で天真爛漫という言葉がぴったりのSは本当にどこに行っても誰からも可愛がられる子になりました。人が大好きで自分からいろんな所に飛び込んでいける明るい子です。親としてそんなSを羨ましく、また誇りにも思います。
【金沢方式をしてみて】
訓練を始めた頃は人と目を合わせる事も出来なかったS。
私たち母子の絆をつなげてくれたこの金沢方式に出会えて、本当に良かったと思います。
正直、家での訓練も決して楽なものではありませんでした。
どちらかというと辛いことの方が多かったかもしれません。
でも、それだけの結果が出るということを、改めて知ることができました。
また、ただ辛いだけでは母親の私自身がダメになってしまうと思い、とにかく無理をせず辛くなったらちょっと休む、そして好きなことは遠慮なくやらせてもらう、といった感じで続けてきました。
そのため今思えば、そういった自分への甘えがなければもう少しSを伸ばしてあげることも出来たのかも・・・なんて、欲も出てくるのですが・・・
【最後に】
最近はお手紙が大好きでお友達だけでは物足りず、お気に入りのぬいぐるみにも書く程。
しかし、まだちゃんとした日本語で書けているわけではありません。
まだまだ時間がかかるとは思いますが、今後も親子で日本語の完成に向けて頑張っていこうと思います。
毎週通った福祉会館。悩みを打ちあけたり、他愛もない話でリラックスできたり、やる気がないときでもそこに行けば自然とやる気がでたり。たくさんの人達に出会えたこと、本当に良かったと思うと共に、ありがとうの気持ちでいっぱいです。
最後になりますが、私たち親子を、お忙しい時間の中でここまで育てて下さった能登谷先生には心から感謝しています。
また、言語指導以外にも、能登谷先生のお言葉でどれだけ助けられたことでしょう。
本当にありがとうございました。これからもまだまだお世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。
S自身、心の成長もまだまだ未熟で、このまま安心して小学校へ通わすことが出来るのか親としては不安でいっぱいです。
しかし、Sには持ち前の明るさがあります。
そして、今まで頑張って来たことの自信もあります。
この先いろいろな楽しいことや辛いことがあると思いますが、思い切って自分の持っている精一杯の力で新しい世界へと羽ばたいていって欲しいと願います。