TM君のお母さんTEさん
卒業感想文集 『報恩感謝』
母 TE
平成12年9月26日、予定日より2週間も早い出産にもかかわらず、3950gの大きな赤ちゃんとして、Mは誕生しました。
生後8ヶ月から、滲出性中耳炎のため、耳鼻科へ通い始めました。
知識がないとは恐ろしいもので、滲出性中耳炎は、たとえ軽度であっても難聴を引き起こす事を、全く知りもせず、また、その後、3年間通い続けるその耳鼻科医からも、何も言われず、日は過ぎていました。
歩行が遅く、相談に行っても、
「大丈夫ですよ。」
その後、言葉の相談に行っても、
「3才まで様子を見ましょう。」
この様な繰り返しは、その後も続きました。
早期発見・早期療育といっても、見抜く力のある専門家との出会いがなければ、成り立たない事を痛感しています。
しかし、2才を過ぎた頃、言葉よりも行動面に、心配する事が多くなりました。
多動、こだわり、かんしゃくの起こし方が普通ではない、そう感じた私は、かかりつけの小児科へ。
ここでも、
「様子をみましょう」
いてもたってもおられず、発達専門の小児科へ、紹介状を書いてもらいました。
Mは2才9ヶ月を過ぎていました。
診断結果は「自閉症」でした。
「先生、この子は来年から幼稚園なんですが・・」
「受け入れてくれる所を探さないとね。」
当たり前の事が当たり前でなくなる・・障害とは、こういうものなのか、と強く感じた事を、覚えています。
時を同じくして、主人の転勤が、四国・高松市から、金沢市へと決まりました。引越をしてから環境の変化で、Mの状態は、手のつけられないほど悪くなっていきました。
常にかんしゃくと多動。気にいらない事があると、私に対して、殴る、蹴る、噛みつく。時には、首をしめられます。
そして、睡眠障害。
夜中に泣き続けました。
買い物へ行けば、陳列している商品を倒す。
毎日、体中にできた傷あとを見つめながら、先が見えない苦しみに、この時ばかりは途方にくれ、涙を流す日々が続きました。
どの先生からも、「自閉症である子供を、そのまんま受けとめて」そう言われても、この現状を受けとめられない毎日でした。
そんな中、療育センタ-小児科医の伊藤和子先生(金沢大学病院 耳鼻科 伊藤先生の奥様です)と、面談する機会がありました。
最後に、忘れていた耳鼻科からの紹介状を見せると、「うちに来るよりも、耳の検査が先!」と、金沢大学病院での検査の日程を決めて下さいました。
平成15年12月5日 忘れもしない能登谷先生との出会いでした。聴力検査のため、部屋へ入っても、何も出きる事もなく、私の後ろで、じっと下を向いたままのM。
先生は、
「この子はいつも、こうですか?」
と聞かれ、
「はい、自閉症ですので・・暴れないだけでもいい方です・・」
と答えるのが精一杯の私に、こう言って下さいました。
「お母さん、この子は自信がなくてオドオドしています。この子の可能性の半分も出ていませんよ。」
―可能性―
今まで、どの小児科医と出会っても言われた事のない言葉。
母親である私でさえ、見失っていた言葉でした。
私は、衝撃が走りました。
すぐに、ABR検査、それから2週間後、70dBの難聴が分かりました。
「M君は、大きな音は聞こえていました。
大きな音とは、お母さんの怒った声と顔。
言葉を持たずに、これだけを学んで育った子供の情緒が、安定するはずがありません。
私は小児科の専門医ではありませんが、自閉症ではないと思います。」
全てが納得いく言葉と、次々と手を打って下さるスピ-ドの速さに、私はオ-ラを感じました。
翌年から金沢方式での訓練を決意しました。M、3才4ヶ月になっていました。
まず、福祉会館へ見学に行きました。
ですが、当然暴れ出したので、外へ出ます。いつもの様に、私に殴りかかり、つばを吐きました。
その様子を、驚きもせず見つめていた先生は、「言葉を持たずに育った子供は悲劇です。
今、一番苦しんでいるのはこの子です。今日はもういいから帰りなさい。」
たった15分間の参加でした。
泣きわめくMを抱きかかえ、私の中では希望の光が見えました。
これでやっと戦える!!
そう決意と意欲が湧き出た瞬間でした。
訓練を始めてから1年間。
この間は、ひたすら、Mとの親子関係を築き上げていく日々でした。
「怒らず、少しでも出来た事はとにかく褒める。」
先生からの課題です。
改めて、Mを褒めていなかった事を思い知らされました。
変化もすぐに現れました。
毎日できていた体の傷が、毎週火曜日の、福祉会館の時だけになっていました。
それですら、うれしい出来事でした。
いつも暴れて、部屋から出る福祉会館でしたが、私は、ここに来ることが勝負と腹に決め、通い続けました。
2年目。この頃から、一人遊びから、お友達と遊ぶことが大好きになりました。
福祉会館へ来る事も楽しみになりました。
じっとする事が苦手なMと、一緒に体を動かしての刺激を続けました。
「ゆっくり歩く」 「すばやく歩く」 文字カードを見せて、一緒に歩きました。
家族で山へ行き、「小さい声」 「大きい声」 「ここでは、どれだけ大きい声を出しても迷惑にならないよ。ヤッホー!!」一つ一つ、言葉を入れていきました。
あいかわらず、かんしゃくはありましたが、副詞・形容詞が入り出してから、切り返しができる様になりました。
生活のルールも理解し、社会性も少しずつ成り立っていきました。
保育所での運動会。1年前は、「できない・・」と言って、1ヶ月間登園拒否をして、参加できなかった悔しい思い出。お友達と一緒に、おゆうぎ、かけっこ、 とびきりの笑顔で楽しい思い出と変わりました。
そして、何より、「お母たん、大ちゅき!」と、言ってくれる幸せを感じました。
3年目。
就学まで、ラスト1年。この頃、言葉の入れるスピードが追いつかない。とうてい普通小学校へ入れるレベルまでいかない。
私は、かなりあせりましたが、能登谷先生から、「お母さんが、ふりまわされて、どうするの!最初にここへ来た時の事を思い出しなさい!」と叱咤激励を頂きました。
私は、この御指導を機に、「目先の事に一喜一憂しない。20年後のMは、この様な人材に!」 母として、未来を信じ、祈る事ができました。
この後、何があっても揺らぐ事はなくなりました。
この時期、感覚統合の情報伝達が、スムーズに流れない発達障害が、新たに分かりました。
小児科医からは、Mの将来まで断言されましたが、
「まだ5才の、未来をたくさん持っている子供の人生を、勝手に決めてくれるな!!負けてたまるか!」
力強く、そう思える事ができました。逆に、感情・行動のコントロールがうまくいかない理由が分かり、そんな中でも、一生懸命、頑張ってきたMを、誇りに思いました。
この頃から、とにかく自信を与える言葉がけに、心を配りました。そんな中、転機が訪れました。
昨年12月、元気だけが取柄の私が、入院してしまいました。
退院後、Mは、自分から 「お勉強しよう。」と言って、教材を持って来るのです。
そして、「これからは、僕がお母さんを守る。だから、お勉強も頑張って、小学校へ行く。」
こんなに成長してくれたのか、と涙が止まりませんでした。
この3年間、Mの訓練ではなく、母である私の訓練の日々だったと思います。
そう御指導して下さった能登谷先生には、報恩感謝の思いで一杯です。
能登谷先生はじめ、たくさんの方々の真心に触れ、Mの成長はあります。このご恩に報いるためにも、Mが大人になった時、たくさんの人々に尽くせる人材へ育てていく事を、夫婦共々、決意しております。
イギリスの絵本作家 ワイルド・スミス氏の言葉です。
「子供達を励まし、彼らが空に手を伸ばして、自分達の人生の星を、つかんでくれる事を願っています」
私も同じ思いです。
そして、「子供達の可能性を信じて、頑張りましょう!」
そう激励して下さる能登谷先生が、私たちには居ます。
最後に、私達家族を支えてくれた主人に感謝します。絵の苦手な私に代わって、教材を作ってくれました。
能登谷先生の最後の言語指導が終わった後、「今まで感謝します」と、手紙を書いてくれて、ありがとう。
娘 MK。
Mと1才違いのお姉さん。
ずっと、寂しい思いをさせてごめんなさい。
「愛情不足」 何度、この言葉を言われた事か。自覚していたからこそ、つらかったです。
小学校へ入り、思いを吐き出してくれて、ありがとう。
「私も難聴になりたかった。寂しかった。でも、一生懸命頑張ってるお母さんを見て、MKちゃんも、M君に言葉を教えてあげようと、気持ちになったよ」
それからは、毎日、Mー君に絵本を読んだり、ホワイトボードに、文を書いて、
「助詞が変われば、意味もかわるげんよ。助詞が大事!」
と、いつの間にか、金沢方式を学んでいましたね。
優しいお姉ちゃんに成長してくれて、ありがとう。
福祉会館で出会ったお母様方、いつも励まして下さって、ありがとうございました。
素晴らしい3年間。
「信じる力が勇気になるんだよね、お母さん」 そう言って、共に頑張ってくれたM、ありがとう。
親子関係を、根底から造り直して下さった能登谷先生、ありがとうございました。