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OR君のお母さんONさん
卒業感想文集(2007年)

8冊のノートと育児日記2冊。ボロボロになったノートにたくさんの思い出がつまっています。

 金沢へ通った5年間は大切な思い出です。

 金沢方式に出会えて本当に良かったです。



 未熟な私を支え、ご指導下さった能登谷先生に、とても感謝しています。

 障害を 知り暗闇に立った私を、明るい世界へと導いてくださった能登谷先生。

 どうか、お体を大切にされて、いつまでも金沢方式の中心にいて欲しいと思います。

 5年間、本当にお世話になり、ありがとうございました。

 子供に気づかされるとか、子供に勉強させられると良く言いますが、本当にそうだなとつくづく思います。

 障害があることによって、健常児を育てるよりも色々なことを、親として人として、考えさせられ学ばされました。

 とは言え、まだまだ、親子共に成長途中ですが…。



 赤ちゃん期のRは、乗り物に1人で座っているのが大嫌いで、チャイルドシートに乗せると狂ったように泣き続けたので、4歳近くまで高速バスで金沢へ通いました。

 着替えやおむつ、離乳食、おやつ等をリュックで背中に担ぎ、前にRを抱え、冬は完全防備で出かけると金沢は晴れていて、どこから来たの?と言うような格好の私に比べ、おしゃれに身軽に通っているお母さん達が羨ましかったです。

 勉強会で、奥能登から通った先輩お母さんに「通う楽しみを見つけ、通わせてもらっていると思って。」と言われましたが、当時はなかなかそう思えませんでした。

 しかし、車で通えるようになった4年目からは、通う楽しみを見つけられ、通わせてもらっているという言葉がぴったりで、先輩の言うことに心底納得できました。

 通う楽しみにエステに行ってみたり、デパートでお買い物をしたり、おいしいものを食べたりと我慢した3年分もあわせて楽しみました。

 ふり返ってみて、我慢した3年間に手話や文字でやりとりが出来るようになっていたので、デパートで買い物をしても、エステで待たせても、大泣きして大変だったということもなく楽しめたのだと思います。

 今はRとコミュニケーションがとれる楽しさを実感しています。


 私は、子供にどうなって欲しいかをイメージし、それを目標にしました。

 私だけかもしれませんが、こうするとやる気が湧いてきました。

 ちなみに、1歳時に立てた目標は、「3歳までに何でも言いたいことを手話でやりとりできるようになろう。」でした。

 3歳時には「人工内耳を活用して、6歳までに誰とでもお話しできるようにしよう。」でした。

 親のまっすぐな願いは子供に通じ、天に通じ、きっと叶うと信じています。


《誕生から発見まで》
 平成13年1月、15年ぶりの大雪の朝に3645gで生まれたRは、ミレニアムベビーブームでたくさん赤ちゃんが並んだ中でも1番大きく、いつ見ても両手を上げていて、握った手を胸の当たりに置いて縮まっている他の赤ちゃんに比べると、態度の大きな赤ちゃんでした。

 生後24日目、不注意にドアを強く閉めてしまったのに、知らん顔で眠るRを見て、「耳が聞こえないのでは?」と心配になりました。

 1ヶ月検診、3ヶ月検診に相談しましたが、耳鼻科医が「こうやって来る内の10人に1人しか難聴はいない。」と言い、耳を見ることもなく帰されました。

 あやせば良く笑うし、泣いているときに声掛けをすれば、少し泣き止むようにも見えたので、私は神経質なのかな?気にしすぎなのかな?と自分を責めて1年が過ぎました。

 1歳の誕生日頃、風邪から中耳炎、腎炎を併発し1ヶ月近く病院通いをしていました。

 育児本に「難聴を発見できないのは親の責任です。」と書いてあったのを読み、その言葉に後押しされ、思いきって耳の検査してみようと、検査を申し込みました。

 検査結果を診療の最後まで待たされたことで、何かが悪いのだろうとは気づきました。どうか、軽度でありますようにと祈りながら待っていましたが、医師からは「反応がありません。」と言われ、少しは覚悟をしていたものの、胸の当たりに全身の血が集まったような感じになって、手足が冷たくなり、地面がぐるぐる回って立っていられませんでした。

 その後は、泣いても、泣いても涙が出てきて、泣きながら食事をし、家事、育児をしました。

「なんで、Rなの?なんで、この家の子なの?」

と考えても出るわけもない答えを考えては泣いていました。



《能登谷先生との出会いで、泣いてばかりの4日間から立ち直りの2週間》
 3日後、耳鼻科からの電話で、「明日、言語外来行ける?」

と聞かれ、

「行きます。」

と即答しました。1人キャンセルが出たので見てもらえるとのことでした。

 平成14年3月12日、R1歳2ヶ月。言語外来の廊下で、頭を突き抜けるような高い声でお喋りするRの声を聞いた能登谷先生は

「あぁ、この声は聞こえていませんね。」

と言われました。その通り、90dBの音で少しピクっとした程度でした。

愕然とする私に先生は

「大丈夫です。話せるようになります。」

と言われ、金沢方式の説明をしてくれました。

 金沢方式に納得し、緑の本2冊を買い、赤い本を借りました。

 そして、午後から福祉会館へ言語訓練の様子を見に行きました。

 我が子の障害をまだ受け入れられない私にとって、難聴の子ども達を目の当たりにすることはとても辛いことでした。

 訓練の終わりに、夫があいさつをしましたが、私はRを抱いて突っ立っているだけで、声を出すこともできませんでした。

 夫はやけに冷静で、どの子の話し方は普通だったとか、どの子の話し方は分からなかったとか、帰りの車の中で話していました。

 緑の本と赤い本は、帰宅するとすぐに読みました。

 読書も泣きながらでしたが、読み終えた時は、やる気満々になっていました。

 泣いていても何も変わらない。

 この子のために出来ることは何か。

 子供の障害を受け入れ前向きになれたのは、この時からでした。

 そして、涙も3分の1程に減った感じでした。



《やる気満々の1歳代》
 2回目の福祉会館で「来週は花見です。花見に関連した言葉を入れてきて下さい。」と連絡がありました。

 さあ、次の日からメモ帳を首からつってお散歩です。

 私のやり方は、何も書いてないメモ帳とペンを持って出かけ、その場で字や絵を書いてみせるやり方です。

 メモ帳に「花」とかいて「これは花だよ。この字とこの花と同じ。」と手話もしながら話しかけました。

 メモ帳には文字だけでなく絵も描いて見せました。

 花だけではなく、Rが手につかんだもの全部に文字や絵を書いて見せました。

 石、葉、土、いい匂い、白、ピンク、黄色、など。

 文字カードは帰ってからそのメモを元に作りました。

 お花見までの2週間、晴れた日はお散歩、雨の日はお絵かき(Rはまだ描けないので、私が描いてみせましたが、必ず横に文字をつけました。)や音遊びをしました。(音遊びは忘れがちになるのですが、大切だと思います。

 子供が「聞こえた」と言ったときや音に気付いたときは、たくさんほめてあげると、聴力検査で早く正しいデーターがとれるようになると思います。)



 お花見当日は、抱っこされて行ってきただけのようでしたが、家に帰ってお風呂から上がると、おばあちゃんのエプロンの花柄と、バスタオルのチューリップと、私の服の花の刺繍をそれぞれ指さしし、「花」だと言うことを訴えているようでした。

 次の日、わざと花柄のエプロンをして外に出ると、エプロンの花と実物の花を交互に指さしし私に知らせてきました。

 花の絵と実物のマッチングができるようになっていました。

 私は嬉しくて、嬉しくて、Rをなでたり、たかいたかいをしたりしてほめました。

 家族にもできたことを見てもらいほめてもらいました。

 Rは誰かにほめられたくて手話や文字を覚えたようでした。

 物には名前があることを理解してきたRは、「これは?」と聞くように指さしして次々と新しい手話を聞いてくるようになりました。

 私の方も、聞かれる前に覚えようと、手話辞典やNHKの手話講座、手話ニュースなどを見たり、近くにある手話サークルに習いに行ったりもしましたが、手話にない物やその時に教えたい物は勝手に作って教え、私とRしか通じない手話でやりとりしました。


 
《反抗期でなだめたりすかしたりの2歳代》
 2歳頃から何でも「いや」「だめ」ばかりになり、文字カードを見せても目をつぶって見ないようなことも出てきました。

 また、かんしゃくは半端なものではありませんでした。

 道路横断時に渡りたいところが違うと、渡りたい所まで戻って渡ろうとしました。

 それを止める私に腹を立て道の真ん中で大暴れし、両側から来る車を止めてしまったこともありました。

 道端でかんしゃくを起こしたときなどは、ものすごい大声で泣き、商店街のおばちゃん達が様子を見に出てきたばかりか、少し離れた国道を車で走っていたおじさんにまで「大丈夫か?」と車を止めて声を掛けられるほどでした。

 普通の子でも2歳代は大変だというのに、言いたいことが言えず、思いが通じないもどかしさは、健聴児より大きいだろうと思います。

 言いたいことが言えるようになりますように、と祈りも込めてRに話しかけました。

 1歳代よりは勉強時間が短くなりましたが、仕方のないことだと思うようにしました。

 嫌がらないように、おんぶして家の中に貼った文字を見せたり、童謡に手話をつけて歌ったりしました。むりやりではなく、楽しく少しずつを心がけました。



《人工内耳装用でドキドキワクワクの3歳代》
 平成15年11月26日(2歳10ヶ月)に人工内耳の手術をしました。

 色々なことを心配し1度キャンセルをした手術でしたが無事成功し、退院時には平均45dBの聴力になりました。

 トイレの水を流す音に驚いたり、ファンヒーターの吹き出しの音、車がバックするときの音、車が水しぶきを上げて走る音、等々今まで聞こえなかった音に1つ1つ反応していました。

 1ヶ月ほどは人工内耳をつけると、ビクッとして声も出せずにいましたが、そのうち「あーえー」と自分で自分の声を確認することが出てきました。

 聞いた音をそれらしく声に出して言えるようになったのもこの頃からでした。

 ビクビクしながらも、Rは聞こえることで自分に自信がついたようでしたし、呼びかけに反応したり、音で危険を感じることが出来るようになったりことは、私としても嬉しいことでした。

 それまではいつでも私と一緒でないと不安で、トイレの中までついてきましたが、この頃から「トイレに行って来るね。」というと、少しずつ部屋で待っていられるようになりました。

 後追いがひどく、私にぴったりすがりつくのは性格のせいだけではなく、難聴のせいでもある、聞こえないということは人を不安にするのだと思い、障害の重さを再認識させられました。

 音に慣れてからは、すごい勢いでしゃべり出し、ノートにどこまで書いたのかわからなくなるほど自発語が増えました。

 発音はまだ不明瞭でしたがこんなに早く手話から自発語へ移行できたのは、金沢方式を続けてきたからこそ出来たのだと思います。

その後、「たけのこ」を「たてのの」などと聞こえたように文字を書くようになり、聞き違いも多くなりました。

 しかし、聞き違えて書いた文字と正しい文字を並べて見せどちらが正しいか選ばせると、正しい方を選べたのでほっとしたのを覚えています。

 また、この時から勉強方法もガラッと変えなければならず、私も慣れるまで大変でしたし、高度難聴から軽度難聴へ移行したのを実感した時でもありました。



《音にも勉強にも慣れてきてお友達との関わりを勉強した4歳、5歳代》
 人工内耳を活用して、手話から口話で話をするようになり、母と子だけのコミュニケーションから、家族、親戚、お友達、近所の人、とコミュニケーションの輪が広がっていきました。

 あえて聞かせていなかった音楽も嫌がらず聞くようになり、4歳半頃にオルゴールの音を聞き「これ、かわいい音だね。」と言ったこともありました。

 このごろは、声だけで怒っているのがわかるらしく「早くしなさい!」と後ろから怒って言うと、慌てて準備するようになりました。

 また、本が大好きで4歳頃から1人で読書をするようになり、私が教えなくても本から覚えることも増えてきました。

 文字も自発語も増えて、お友達とも会話が出来るようになりました。

 とは言え、まだ発音は不明瞭で担任が替わると言葉が通じず、お友達に通訳してもらっています。

 お友達に助けられ過ごした保育所ですが、4歳代冬期と、5歳代の2ヶ月間程、いじめられたことがありました。

 帰宅すると何だかぐずぐず言うし、「どうしたの?」と聞いても家族の前ではぐずるだけで何も言わないRでしたが、私と2人きりになった時や寝る前にポツリと一言「○○君がこんなことした。」とこぼすことがありました。

 私が聞き探ると「ママ、もう聞かないで。」と布団をかぶってしまい、それ以上聞くことができず悶々とした気持ちで何ヶ月か過ごしたことがありました。

 4歳代の時は1対1だったので見守りましたが、5歳代の時は、所長先生に相談し対処してもらい、いじめはなくなりました。

 Rはもうなかったこととまではいかなくても、普通にその子と接しているようですが、正直私は許していません。

 いじめは絶対してはいけない。そんなことも親から教えてもらっていない哀れな子だと思っています。

 まだ、小さいのに本当に辛い経験をしましたが、いじめられた時に、Rの味方をしてくれたお友達もいました。

 それは、Rにとって、とても心強いことだったと思います。

 今では、「1年生になったら○○君と○○君が、Rのお家に遊びに来るって。」と楽しそうに話してくれるようになりました。

 「Rのお部屋ができたし、そのお部屋でお友達と遊んだらいいよ。」と言うと目を輝かせて「うん!」と返事をしています。

 辛いことを乗り越えて、Rは、たくましく、優しくなったと思います。

 1年生になったらたくさんのお友達と関わって、親友を見つけて欲しいと心から願っています。そして、楽しい学校生活が送れるように、支えていこうと思います。

 今のRの夢は、宇宙飛行士と研究者と画家だそうです。すごいビックな夢をおじいちゃんおばあちゃん達は本気で応援してくれています。

 これが我が家の良いところです。

 Rにすればプレッシャーになるかと思いきや、いつでも注目されていたいRにとって、おじいちゃん達の期待は、今のところ、なくてはならないようでうまくいっています。

 私が教えるのに一生懸命になり過ぎて怖い母親になっても、優しい2人のおばあちゃんとおじいちゃんがいたので大丈夫でした。

 私とRの精神安定に協力してくれた実家の両親と姑。

 金沢往復を心配し、仕事を休んでまで送り迎えしてくれた旦那様。

 少ない家族ですが、みんなでそれぞれに応援してくれて、ここまで来れました。みんな、ありがとう。これからもよろしくお願いします。

 R、私の作った教材に文句も言わず良くついてきてくれました。

 ありがとう。そして、よく頑張りました。

 Rは私が教える以上に色々なことを理解してくれました。

 私の方が助けられたことの方が多かったように思います。

 頑張り屋で優しいRは私の誇りです。

 これからも、一緒に頑張ろうね。卒業、おめでとう!

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